夢で遭遇いましょう
転 落
ある蒸し暑い夏の日の午後、俺は大きな駅のコンコースにいた。待ち合わせまで少し時間があり、人々の波をぼんやりと眺めていた。天井の高くにある電光掲示板には、次々と発着する電車の案内が表示され、その無機質な光が雑踏の中で唯一の安らぎのように感じられた。すると、どこからともなく陽気な音色が耳に飛び込んできた。それは、のんびりとした三線の音色と、力強くも優しい男女の歌声。紛れもない沖縄の歌だった。活気ある駅の喧騒と、どこか牧歌的なその歌声が混じり合い、奇妙な、しかし忘れがたい熱気を帯びていた。
隣に立っていた中年の男が、突然ニヤニヤしながら俺に話しかけてきた。「あんたも歌ってみなよ! いい歌だろ? 沖縄はいいよなぁ、一度は行ってみたいもんだな!」
彼の言葉に、俺は戸惑いを隠せなかった。正直なところ、俺は沖縄に行ったこともなければ、興味もなかった。テレビで見る青い海や独特の文化は確かに魅力的ではあるが、なぜか強く惹かれることはなかったのだ。どう返事をすればいいか困っていると、そこに颯爽と現れたのは、テレビでおなじみのタレントの井上順だった。彼は満面の笑みを浮かべ、俺と隣の男の間にスッと入ると、まるでステージに立つかのように身振り手振りを交えて話し始めた。「ああ、その歌ね!
これはねぇ、沖縄の伝統的な歌で、海の豊かさとか、人々の絆を歌ったものなんだよ。メロディラインが特徴的で、心が自然と躍り出すような……」と、畳みかけるように歌の背景や意味を説明してくれる。しかし、彼の話はどこか抽象的で、情熱的な分だけ脈絡がなく、結局のところ、俺には全く理解できなかった。熱心に語る井上順を前に、俺はただ曖昧な笑顔を浮かべるしかなかった。「へぇ、そうなんですね……」と相槌を打つのが精一杯で、よく分からないまま、結局歌えないまま、ただ困った状況に立ち尽くすしかなかった。井上順は満足げにうなずくと、次の瞬間にはまた人混みの中に消えていった。何かのロケの途中だったのだろうか?
そうだ、それは東京駅の東海道新幹線のホームの上のことだった。出所したばかりの父が唐突に東京に、俺の顔を見に来た、その帰りの夜のことだった。名古屋に帰る父を見送った後、ホームの上で、しばらく呆然としていたのだ、丁度、サントリーが缶入りの烏龍茶の発売したての頃だった。缶入りのお茶なんて。とは思ったが、珍しく買ってみた。苦かった。
父は肺炎か何かでやがて死んだ。父も俺も沖縄に行くことはなかった。
友よ、沖縄はかくも遠い。
次の日、俺は異様な熱気に包まれた劇場にいた。今日、ここで開催されるのは、かつて格闘技界を席巻した高田延彦の引退試合だ。なぜかその試合は、普段演劇やコンサートが催されるような格式ある劇場でやることになっていた。客席は満員で、ざわめきと期待感が渦巻いている。リングが組まれたステージは、普段はスポットライトを浴びる役者たちが立つ場所。そのアンバランスさが、妙に現実離れした雰囲気を醸し出していた。
開演前、ざわめく観客たちの間で交わされる会話は、ほとんどが「なんで劇場でやるんだろうな?」という疑問と、「借金のためか?」という憶測だった。一時期、高田の事業が芳しくないという噂は耳にしていたが、まさか引退試合がそのためのものだとすれば、あまりにも悲しい。あるいは、これは格闘技をエンターテイメントとして極限まで昇華させた劇場型プロレスということなのか。かつてテレビで見ていたプロレスとは全く違う、異質な空間がそこにはあった。観客たちの熱気は異常なほどで、彼らの放つ興奮と期待が、まるで物理的な圧力のように俺の肩にのしかかる。試合開始前から、その只ならぬ雰囲気に客に飲まれてしまい、すでに疲れているような感覚に陥っていた。場内アナウンスが流れ、いよいよ試合が始まる。リングサイドから放たれる熱気が、劇場全体の空気を震わせた。
対戦相手は、当日まではXとしか公表されいなかった。今日、会場に来てみると、未知の覆面レスラーがその相手ということだ。覆面? どういうことだろうか? 格闘技ではなく、プロレスラーとして、終えるという意味なのか?
翌週の休日のことだ。家族サービスのため、俺は遊園地に来ていた。子供たちははしゃぎ回り、妻はどこか楽しげにその後を追っている。しかし、俺の目は、園内の片隅にある奇妙な光景に釘付けになっていた。そこには簡易的なリングが組まれ、まさかのプロレスの試合が行われていたのだ。看板を見ると、どうやら新日本プロレスと、名前も知らないどこだか分からないインディーズ団体の混合イベントらしい。まさか遊園地でプロレスが見られるとは、予想外の展開だった。
最初は遠くからその様子を眺めていた。レスラーたちの雄叫びや、マットに叩きつけられる鈍い音が、遠くからでも聞こえてくる。しかし、距離が遠すぎて、細かい動きまでは見えない。どうしても近くで見たいという衝動に駆られ、俺は自然とリングへと足を進めていた。家族も来るがそれどころではない。子供たちが「パパ、あっち行こうよ!」と俺の服を引っ張るのも、妻が「早く乗り物に乗ろうよ」と声をかけるのも、全く耳に入ってこなかった。俺の意識は、ただリング上の熱戦に集中していた。
リングは、遊園地の敷地の奥、川沿いに設置されていた。観客との間には、人の腰ほどの高さの簡易的なフェンスがあるだけだ。試合が最高潮に達し、一人の選手が大きくロープに振られ、そのまま勢い余って場外に転落した。鈍い衝撃音と共に、彼の体がフェンスの向こう側に投げ出される。そして、次の瞬間、彼の腕から鮮やかな血を流しているのが見えた。普段はテレビの中で見る非現実的な光景が、目の前で繰り広げられている。その生々しさに、俺は一瞬息を呑んだ。
遊園地でのプロレス フェンスを昇る 画像生成:Google Jemini
その時、まるで何かに憑かれたかのように、俺の体は勝手に動き出していた。流血する選手を助けたいという衝動なのか、それとも、この非日常の光景にもっと深く踏み込みたいという欲求なのか。理由は定かではないが、俺は無意識のうちにその低いフェンスを攀じ登ろうとしている自分に気づいた。フェンスの網目に手をかけ、一歩、また一歩と足をかけようとした瞬間、妻の「あなた!」という驚いた声が聞こえ、俺はハッと我に返った。だが、その時の俺の心臓は、まだ激しく鼓動を打っていた。
転 落
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①2625字(400字詰め原稿用紙換算7枚)
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