2025年7月26日土曜日

会館

 

会 館

「会館」 画像生成 Google Jemini

 

久しぶりに新興宗教団体「正教会館」の会合に顔を出した。俺は子供の頃からの「会館員」だが(つまり、親が会館員だったということだ)、もう何年も組織から離れていた。会場に入ると、見慣れない顔がちらほらとある中に、特に目を引く新来者がいた。スドー君というらしい。

 お勤めが始まった。だが、どうにも呼吸が合わない。みんなばらばらだ。どうしてみんなは導師に合わせようとしないのだ? イライラを感じる。今時の会館はこんなものかという白けた気分に満たされる。居心地の悪さに耐えかねて、俺はそっと席を立ちトイレへと向かった。

 用を足し、元の場所に戻ろうとしたが、元の場所が全く分からない。そもそも会館の中はやたらと広く、無数の部屋と部屋がつながっているのだ。会館の中は迷路のように入り組んでいて、どの通路も同じように見える。焦りが募る。

 そこへ偶々、俺を久し振りに会合に連れ出した反田さんとばったり遭う。

「どうしたんですか? 逃げたのかと思いましたよ」

「逃げた?」 それは聞き捨てならない。どうして、俺が逃げる必要があるのか? 一体何から逃げるというのか?

 しかし、そこで議論しても仕方がないので、大人しく反田さんに「拉致」されて会場に戻る。

 ちょうど皆で「三勝義種傅」を読み合わせる時間になっていた。そして、悪い予感は的中する。俺が当てられたのだ。中心者から音読せよ、言われる。

 ところが読み始めると、俺の知っているそれとは全く違う。漢文だった(当たり前だ)。しかも、返り点も無性に多く(当たり前だ)、漢字も多い(当たり前だ)。俺の貧弱な知識では到底読める代物ではない。しどろもどろになり、声が震える。周囲の視線が突き刺さる。実は、他の誰もこの漢文を読めないらしく、俺は期待されていたのだと後で知った。これはとても俺の知っている「三勝義種傅」とは思えない。以前、自分の結婚式の晩の二次会のあとのバーで「三勝義種傅」なんて簡単だ、と言い放って、友人たちから顰蹙を買ったことを思い出す。これはその時の罰なのか? 自分でも顔面蒼白になっているのが分かった。

 結果的に、俺は病院に強制入院させられることになった。ずっと目の検査が続く。これはフェイクだ。俺の目は悪くない。組織は俺を病院送りにすることで、あの会場での出来事を何事もなかったかのようにしたつもりだろうが、そうはいかない。強い憎しみと怒りがこみ上げてくる。

 ところが、その病院の医者が、驚くほど俳優の瑠奈に似ているのだ。いや、似ているというよりも、瑠奈その人ではないのか? 彼女は検査の時、じっと俺の目の中の秘密の穴の中にある秘密の部屋を探しているようだった。そこに何かが隠されているのだ。その視線に、俺はなぜだかいい気分になり、いつの間にかその女医を好きになっていた。俺はすぐに好きになるのだ。これは、会館が瑠奈に似た医者を使って、俺を色仕掛けで籠絡するつもりなのか? そmそも俺は診察されることが好きなのだ。

「瑠奈に似た女医に診察される」 画像生成 Google Jemini

 

そうこうするうちに、会館への怒りは薄れ、ついには会館のことすら忘却の彼方へと遠ざかっていった。瑠奈に似た彼女の瞳が、俺の心を完全に支配してしまったのだから。

会 館

 

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①1349字(4枚) 20250726 0542

2025年7月21日月曜日

眼医者

 

眼医者

以前、合宿中に急遽入院したことがある。それは夏の盛りに行われた合宿での出来事だった。鬱蒼とした山々に囲まれた、ひどく退屈な研修施設に缶詰めになり、朝から晩まで仕事に追われる日々。その最中、突如として右目の奥に、鉛のような鈍い痛みが走り出した。これは仕事どころではない、耐え難い痛みで、俺はすぐに合宿責任者に事情を話し、最寄りの大きな大学病院へと向かった。診察室で何が起こったのか、今となっては記憶が曖昧だ。ただ、若い医師が首を傾げながら告げた「入院が必要ですね」という言葉だけが、奇妙に耳に残っている。

合宿中に入院? まさか。生まれてこの方、入院はおろか、手術すら経験したことのない俺にとって、それはあまりにも突飛な話だった。冗談ではない。これでは全く焼きが回ったなというしかないではないか。




「大学病院に入院する」 画像生成:Google Jemini

致し方ない、と自分に言い聞かせたものの、一体何日間、この病院の厄介になるのだろう。こんなことをしていたら、合宿どころか、仕事そのものが宙に浮いてしまう。そもそも、なぜここで入院

しなければならないのか。東京に戻ってからでも良かったのではないか――今更ながらそう思うが、あの時の俺は、妙に神経が耗弱していて、医師の言葉に逆らう気力すら湧かなかった。着の身着のままで、促されるままに病室の扉をくぐったのだ。

 

案内されたのは6人部屋だった。人の気配はする。生活の痕跡とでもいうべき、微かな物音や影がそこかしこにあるのだが、実際に誰かの姿を目にしたことは一度もない。薄汚れた白いカーテンが、それぞれのベッドを頑なに隔てている。わざわざそのカーテンを開けて話しかけるのも躊躇われたし、何より、彼らは決して姿を現そうとしない。まるで透明人間か、あるいは俺以外の時間が止まっているかのように、物音ひとつなく、人のいる気配すら感じられないのだ。

眼に悪いから、と携帯電話は取り上げられた。当然、本を読むことも許されない。元々、手元に一冊の本もなかったのだが。視界から奪われた情報源は、俺の時間を無限に引き延ばす。退屈で、退屈で、どうにかなりそうだった。消灯は夜の9時。ところが、夜になっても全く眠ることができない。その代わりに、昼間、ふとした瞬間に意識が遠のき、短い昼寝を断続的に繰り返す羽目になった。

散歩でもしようかと考えたが、右目に不慣れな眼帯をしていて、遠近感が全く摑めない。歩こうにも足元がおぼつかないのだ。そもそも勝手に散歩していいのかすらわからない。何をするのも億劫で、ひたすらベッドの上で天井を眺めているしかなかった。 

もうかれこれ数日が経った。いや、数日という感覚すら曖牲になっていた。まるで時の檻に閉じ込められたかのように、時間の流れが曖昧で、昨日と今日の区別すらつかなくなる。刑務所に収監された囚人も、きっとこんな風に時間の感覚を失っていくのだろうか。

午後になると毎日、診察室に呼び出された。定期検診なのか、治療なのか、それともリハビリテイションなのか、俺には全く分からない。そもそも説明があったのかもしれないが、耳を素通りしたか、理解できなかったかのどちらかだろう。そこで俺を診てくれるのは、二人の女性だった。医師なのか、それとも視能訓練士なのか、肩書は不明だ。日替わりで担当してくれて、素人にはよく分からない、検査のような、あるいは治療のようなことを施してくれた。

眼帯を外され、右目を消毒される。冷たい感触の後に、何やら目薬が差され、視界がぼやける。すると、スモール・ライトのような器具で、俺の眼の奥をじっと覗き込むのだ。その距離の近さに、いつも戸惑いを覚えた。

一人は髪の長い、少しだけふっくらとした印象の女性だった。もう一人は、ショート・カットだからというわけではないが、少年と見紛うばかりの細身で、きびきびとした動きが印象的な女性。不思議なことに、俺はその「少年のような女性医師」に、密かな好意を抱いているような気がした。いや、違う。そうではない。むしろ、その「少年のような女性」が、なぜだか俺に興味を、あるいは好意を抱いているように感じられたのだ。そんなことが、果たしてあるのだろうか? 



「診察中の山田医師」 画像生成:Google Jemini

眼科だから当然なのだが、顔と顔が異常なほど接近する。彼女はじっと俺の瞳を見つめる。已む無く俺も彼女の瞳孔を見つめ返す。これは一体なんだ。彼女は、何かを考えながら、俺の目を見る。じっと見る。その度に、彼女の吐息が微かに頬にかかるような気がして、俺はひっそりと息を止めた。

彼女の名前が分からない。名札を覗き込もうとするが、何やら判読不能な文字が羅列されているだけだ。「山田?? 波? 留?」と読めなくもないが、それが本当に彼女の名前なのか、それとも単なるメモ書きなのかすら判然としない。

「治るんですかね?」

仮称「山田医師」は何も答えず、ただ「うーん」と曖昧な返事をしながら、椅子の上で膝を抱え込む。どうしてそんなことをするのか? 逆に正直な人なのか? 本当なら「もちろん治りますよ」と力強く言ってほしいところだが、彼女のその曖昧さが、かえって真実味を帯びているように感じられた。

突如、何も言わずに、仮称「山田医師」は、何も言わずに診察室の奥へと去っていく。どこへ行くのだろう? ふと視線を窓の外に向けると、中庭から一匹の犬がのんびりと入ってくるのが見えた。ここは動物病院兼用なのか? そんな馬鹿な。

机に置いてあった珈琲カップを倒してしまった。茶色い液体がじわりと広がる。これは本当にコーヒーなのか? 香りがしない。ティッシュで拭き取る。





「病院を無断で抜け出す」 画像生成:Google Jemini

已むを得ず、自分の病室に戻ろうとした、その時だった。なぜか俺は自分の荷物を持って、病院の玄関から外に出ていた。気がつくと、合宿の宿舎に戻ったつもりなのだが、そこは宿舎というよりも、豪華なホテルと見紛うばかりの佇まいだ。トンネルの入り口のような、薄暗く奥行きのあるエントランスを潜り抜ける。

 

自室に戻ろうとすると、なぜかバスの1号室のメンバーが誰もいない。バスの号車でグループを組んでいるのだ。みんな、もう東京に帰ってしまったのか? いや、そんなはずはない。他の部屋からは、まだ賑やかな話し声が聞こえてくる。

合宿責任者を探して、今後の指示を仰がなければ。階段を降りると、後輩の倉敷君がいた。彼に聞くのは少し気恥ずかしいが、背に腹は代えられない。

「榎木部長、どこにいるか知ってる?」しかし、倉敷君は俺の問いかけに答えることなく、どこかぼんやりとした表情で、壁のシミを見つめている。どうも、俺が誰だかわからないようだ。

仕方なく、正面のグラウンドに出ると、生徒たちが集合していた。騒めきの中で、俺は合宿責任者の姿を探した。あそこにいるのは土岐君だ。しかし彼は、何やら審査委員席のような場所に座り、賞品がずらりと並べられたテイブルの前で忙しそうにしている。邪魔したら悪いので、その場を離れる。

人混みを無理矢理かき分けて進む。視線の先に、神社の鳥居が見えた。祭りでも開催されているのだろうか? 賑やかな音が遠くから聞こえてくる。

そこには、先輩の安治さんがいた。彼は俺にアイ・コンタクトをとってくる。なぜだ? 何かを言いたげな、しかし何も語らないその視線に、俺は不安を覚えた。何が言いたいのだろう?

再び正面の方向に戻ると、ちょうど目の前を1号車のバスが通り過ぎるところではないか。

「おーい!」と声を張り上げ、手を振る。しかし、その右手には、黒革のぶかぶかな手袋が嵌められていた。まるで子供が父親の手袋を無断で付けてみたかのように、指先が余っている。手を振るたびに、そのぶかぶか加減が強調される。

1号車のバスはそのまま、あっという間に視界から消えていった。

しかし、俺は一体、どうやって東京に戻ればいいのだろうか?

生徒達が嘲笑うかのように、周りで大笑いしていた。

 

眼医者

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①3192字(400字詰め原稿用紙換算8枚) 

20250714 0857

自転車Ⅱ

 

 

自転車 Ⅱ

 



 自転車を漕ぐ足が重い。駅からの帰り道はいつもこんなに長かっただろうか。夕焼けがビルの谷間に沈みかけ、あたりは茶色い光に染まっている。

俺はしばらく急な坂道を下っていく。

 ふと、目の前の坂道が、子供の頃住んでいた街の風景と重る。確かに見覚えがある。

いや、まさか。なぜ俺は今、ここにいる?

耳を澄ますと、低い轟音が響いてくる。最初は雷かと思ったが、どうも違う。地鳴りのような、不穏な響きだ。爆撃ではないのか? まさか、戦争? 急に? 自転車に乗っている俺には、ニュースを確認する術がない。情報から遮断された空間で、不安だけが募る。

 と思っていると、爆音とともに炎が吹き上がる。左の山の斜面が爆撃されているではないか。どういうことだ? そんな事がありうるのが? 爆撃機は見当たらない。ということは単なる自然発火による爆発か? しかし、それが5つも、6つも連鎖的に発生するのはおかしくないか?

 すると、自転車走行中にも関わらず、急な眠気に襲われた。瞼が重い。こんなところで目を閉じるのは危ない。わかっているのに、抗えない睡魔に身を任せてしまった。

次に目を開けた時、俺は舗装されていない山道を自転車で走行していた。左右を木々に囲まれ、砂利道がどこまでも続いている。よく事故らなかったな、と背筋が寒くなる。

わけがわからないまま来た道を戻ると、見慣れた幹線道路に出た。しかし、そこには巨大なショッピングモールが聳え立っていた。

俺は、ふとある記憶を思い出した。そのモールの中で、小6から高1まで密かに思いを寄せていた明智宵子と偶然出会ったのだ。確か、今は亡きレコード・ショップの新星堂の前だった。当然のことながら、俺は彼女を無視した。この当時、性別の違いを越えて、校外は無論のこと、校内でも自由に話したりする習慣がなかったのだ。その後、高1の時にラヴ・レターのようなものを出したが、呆気なく撃沈した。宵子は面食いだったのだ。止むを得ない。

その時、モールの中にはクリスマス・ケーキの出店が出ていたから、冬だったのだろう。

あの日と同じ、空気が肌を刺すような寒さだ。だが、俺がいるのは、あの時の街ではない。いったい何が起こっているんだ?

 

自転車 Ⅱ

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①840字(400字詰め原稿用紙換算3枚) 

20250707 1935

夢で遭遇いましょう 進行表

 


転 落

 

転 落

 

ある蒸し暑い夏の日の午後、俺は大きな駅のコンコースにいた。待ち合わせまで少し時間があり、人々の波をぼんやりと眺めていた。天井の高くにある電光掲示板には、次々と発着する電車の案内が表示され、その無機質な光が雑踏の中で唯一の安らぎのように感じられた。すると、どこからともなく陽気な音色が耳に飛び込んできた。それは、のんびりとした三線の音色と、力強くも優しい男女の歌声。紛れもない沖縄の歌だった。活気ある駅の喧騒と、どこか牧歌的なその歌声が混じり合い、奇妙な、しかし忘れがたい熱気を帯びていた。

隣に立っていた中年の男が、突然ニヤニヤしながら俺に話しかけてきた。「あんたも歌ってみなよ! いい歌だろ? 沖縄はいいよなぁ、一度は行ってみたいもんだな!」

彼の言葉に、俺は戸惑いを隠せなかった。正直なところ、俺は沖縄に行ったこともなければ、興味もなかった。テレビで見る青い海や独特の文化は確かに魅力的ではあるが、なぜか強く惹かれることはなかったのだ。どう返事をすればいいか困っていると、そこに颯爽と現れたのは、テレビでおなじみのタレントの井上順だった。彼は満面の笑みを浮かべ、俺と隣の男の間にスッと入ると、まるでステージに立つかのように身振り手振りを交えて話し始めた。「ああ、その歌ね! これはねぇ、沖縄の伝統的な歌で、海の豊かさとか、人々の絆を歌ったものなんだよ。メロディラインが特徴的で、心が自然と躍り出すような……」と、畳みかけるように歌の背景や意味を説明してくれる。しかし、彼の話はどこか抽象的で、情熱的な分だけ脈絡がなく、結局のところ、俺には全く理解できなかった。熱心に語る井上順を前に、俺はただ曖昧な笑顔を浮かべるしかなかった。「へぇ、そうなんですね……」と相槌を打つのが精一杯で、よく分からないまま、結局歌えないまま、ただ困った状況に立ち尽くすしかなかった。井上順は満足げにうなずくと、次の瞬間にはまた人混みの中に消えていった。何かのロケの途中だったのだろうか?

そうだ、それは東京駅の東海道新幹線のホームの上のことだった。出所したばかりの父が唐突に東京に、俺の顔を見に来た、その帰りの夜のことだった。名古屋に帰る父を見送った後、ホームの上で、しばらく呆然としていたのだ、丁度、サントリーが缶入りの烏龍茶の発売したての頃だった。缶入りのお茶なんて。とは思ったが、珍しく買ってみた。苦かった。

父は肺炎か何かでやがて死んだ。父も俺も沖縄に行くことはなかった。

友よ、沖縄はかくも遠い。


 

次の日、俺は異様な熱気に包まれた劇場にいた。今日、ここで開催されるのは、かつて格闘技界を席巻した高田延彦の引退試合だ。なぜかその試合は、普段演劇やコンサートが催されるような格式ある劇場でやることになっていた。客席は満員で、ざわめきと期待感が渦巻いている。リングが組まれたステージは、普段はスポットライトを浴びる役者たちが立つ場所。そのアンバランスさが、妙に現実離れした雰囲気を醸し出していた。

開演前、ざわめく観客たちの間で交わされる会話は、ほとんどが「なんで劇場でやるんだろうな?」という疑問と、「借金のためか?」という憶測だった。一時期、高田の事業が芳しくないという噂は耳にしていたが、まさか引退試合がそのためのものだとすれば、あまりにも悲しい。あるいは、これは格闘技をエンターテイメントとして極限まで昇華させた劇場型プロレスということなのか。かつてテレビで見ていたプロレスとは全く違う、異質な空間がそこにはあった。観客たちの熱気は異常なほどで、彼らの放つ興奮と期待が、まるで物理的な圧力のように俺の肩にのしかかる。試合開始前から、その只ならぬ雰囲気に客に飲まれてしまい、すでに疲れているような感覚に陥っていた。場内アナウンスが流れ、いよいよ試合が始まる。リングサイドから放たれる熱気が、劇場全体の空気を震わせた。

対戦相手は、当日まではXとしか公表されいなかった。今日、会場に来てみると、未知の覆面レスラーがその相手ということだ。覆面? どういうことだろうか? 格闘技ではなく、プロレスラーとして、終えるという意味なのか?

 


翌週の休日のことだ。家族サービスのため、俺は遊園地に来ていた。子供たちははしゃぎ回り、妻はどこか楽しげにその後を追っている。しかし、俺の目は、園内の片隅にある奇妙な光景に釘付けになっていた。そこには簡易的なリングが組まれ、まさかのプロレスの試合が行われていたのだ。看板を見ると、どうやら新日本プロレスと、名前も知らないどこだか分からないインディーズ団体の混合イベントらしい。まさか遊園地でプロレスが見られるとは、予想外の展開だった。

最初は遠くからその様子を眺めていた。レスラーたちの雄叫びや、マットに叩きつけられる鈍い音が、遠くからでも聞こえてくる。しかし、距離が遠すぎて、細かい動きまでは見えない。どうしても近くで見たいという衝動に駆られ、俺は自然とリングへと足を進めていた。家族も来るがそれどころではない。子供たちが「パパ、あっち行こうよ!」と俺の服を引っ張るのも、妻が「早く乗り物に乗ろうよ」と声をかけるのも、全く耳に入ってこなかった。俺の意識は、ただリング上の熱戦に集中していた。

リングは、遊園地の敷地の奥、川沿いに設置されていた。観客との間には、人の腰ほどの高さの簡易的なフェンスがあるだけだ。試合が最高潮に達し、一人の選手が大きくロープに振られ、そのまま勢い余って場外に転落した。鈍い衝撃音と共に、彼の体がフェンスの向こう側に投げ出される。そして、次の瞬間、彼の腕から鮮やかな血を流しているのが見えた。普段はテレビの中で見る非現実的な光景が、目の前で繰り広げられている。その生々しさに、俺は一瞬息を呑んだ。

遊園地でのプロレス フェンスを昇る 画像生成:Google Jemini

 

 

その時、まるで何かに憑かれたかのように、俺の体は勝手に動き出していた。流血する選手を助けたいという衝動なのか、それとも、この非日常の光景にもっと深く踏み込みたいという欲求なのか。理由は定かではないが、俺は無意識のうちにその低いフェンスを攀じ登ろうとしている自分に気づいた。フェンスの網目に手をかけ、一歩、また一歩と足をかけようとした瞬間、妻の「あなた!」という驚いた声が聞こえ、俺はハッと我に返った。だが、その時の俺の心臓は、まだ激しく鼓動を打っていた。

転 落

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①2625字(400字詰め原稿用紙換算7枚) 

20250721 1645

2025年7月20日日曜日

高 原

 

高 原

 

俺は映画でも見ていたのだろうか?

目の前には、SF映画の一場面のような光景が広がっていた。高速道路を走る車窓からは、両側に林立する、およそ100mはあろうかという巨大な円錐形の岩石が次々と流れていく。まるで鍾乳洞を逆さまにしたような、奇妙で荒涼とした風景だ。ここは高原の上らしいが、一体全体どこなんだ?

俺たちは公害対策Gメンのようなものらしい。今頃公害対策なのかとも思うが、そもそも正式名称を俺は知らない。皆、同じく草臥れた防災服のような灰色の制服を着ている。両肩にペンなどが差せるポケットがあるやつだな。一応正式にはネクタイ着用の義務があるが、誰もそれを守らず襟元はだらしなく開かれている。

チームは5人。中年ではあるが、頼れるチーフの電光、お腹がでかい。若手だが切れ者のセカンド、発烈はメッシュに入った長い髪をなびかせている。頬に三本髭のタトゥを入れピアスも派手に付けている。コンピュータ操作が専門のエンジニア、弱冠16歳の電信。中学卒業時に既にアメリカの大学の理数学部での卒業認定をもらっている切れ者だ。ちなみにロングヘアにメタルフレイムの眼鏡をかけた女子だ。そしてもう一人女子。ショートカットが凛々しいスポーツ万能。高校時代は陸上、短距離で、大学時代は格闘技で日本大会まで行ったという、渦巻……いや、渦潮だったか? いや、潮吹だったか、いや、それはいくら何でも違うだろうな。俺は自分の記憶の曖昧さに戸惑う。

じゃあ、俺は何ができるか? 何もできない。奇妙だな。

「しっかりしなっせ!」

突然、隣に座っていた渦潮に肩を叩かれた。痛い。何故、突然叩かれたのかよく分からない。だが、それ以上に嬉しい。そもそも、彼女が隣に座っているだけで俺は浮かれていた。

つまり、運転席:電光、助手席:発烈、後部座席、右から電信(彼女の前には電子頭脳のモニターとキーボードがある)、真ん中:俺、左:渦潮、という訳だ。つまり、これは忍者部隊のようなネーミングの発想になっているんだろうな。では、俺は誰か? 分からない。誰かが俺を呼んでくれるまで、分からないのだ。

視線の先に、いくつもの巨大な竜巻が迫ってくる。黄砂と排気ガスが原因だという。ということは、ここはあの黄土高原なのか? どうやってこんなところまで来たのか、まったく記憶がない。そもそも、どうして俺はこんな公害Gメン的な組織に入隊したんだろうか? 正式名称すら思い出せないなんて、我ながら情けない。

「科学技術庁長官の不知火博士が竜巻を止める薬を発見した、発明ではなく発見だ」

電光が静かに呟いた。発見したことの意味は説明されなかった。

「……ということは、我々は科学技術庁の職員なんですか?」

俺の問いに、誰も答えない。沈黙が重く圧し掛かる。しばらくして、電光がポツリと「嘱託だ」とつぶやいた。渦潮が「給料上がんねーかな?」と、それに続く。なるほど、そういうことか。人手不足で、よくわからないGメン的な組織に引き抜かれたって訳か。

「行くぞ!」

電光の叫び声が車内に響く。

「つかまって!」

渦潮の声が重なった。電信が電磁頭脳で計算をしている(ようだ)。そもそも電信は口を利いてくれない。

竜巻が目前に迫る。発烈が窓から身を乗り出し、何本もの吹き矢を竜巻に放った。火花が散る。爆音と衝撃音が連続する。公害Gメン的なモービルは、衝撃で激しく揺さぶられた。俺は思わず、隣の渦潮の膝に抱きつく。

バシッ!

容赦ない音がして、顔が熱くなった。渦潮に叩かれたのだ。

すると、信じられない光景が目の前で繰り広げられた。竜巻は突然上下反転し、巨大な円錐形に凝固していく。まるで時が止まったかのように、動きを止めた竜巻は、やがて黄土高原にそびえ立つ岩石の一つと化した。

これが、黄土高原に多く見られる多円錐波状地形の由来である――

発烈と渦潮は次々と吹き矢を放ち、竜巻を円錐へと凝固させていった。

高 原

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①1599字(400字詰め原稿用紙換算4枚) 

20250714 2002

夢で遭遇いましょう    師匠と弟子

 

師匠と弟子


 


 

 

  

 

教室は熱気に満ちていた。いや、熱気というよりは、淀んだ空気が充満していたと言った方が正確だったかも知れない。休日出勤にもかかわらず、20人もいただろうか。集められた塾の講師たちは、ホワイトボードに映し出された「新規事業企画会議」の文字を前に、ぼんやりと座っていた。

「で、この『宇宙を股にかけるスーパー講師集団』っていうのは、具体的にどういう層にアプローチするんですかね?」

新卒で入って来たY**が恐る恐る尋ねる。しかし、返ってきたのは、映画プロデューサー気取りの本部長の熱弁だった。

「いやだからさ、これはもうコンセプトが命なんだよ。ターゲットとか、そういうミクロな話じゃない。壮大なビジョン、つまりは宇宙、宇宙! 全人類が我々の授業を受ける、と。そういう気概がなきゃ、この企画は成功しないんだ!」

全く、何を言っているのか分からない。Y**が呆れ顔で俺の顔を見る。しかし、俺には答えようがない。まるでハリウッド映画の打ち合わせでもしているかのようだ。

その間も、職員室は会議に参加していな職員たちでざわついていた。労働組合の監査が入るらしい。いや、監査というよりは、単に書記が抜き打ちでやってくる、という噂だ。「抜き打ち」のはずが、どうして皆知っているんだろうか? 

――何を今さら。隠しようもないほど、一部上場と言いながら、この塾の労働環境は「ブラック」とでも言うべきものだったのに。

話が煮詰まったのか、突如休憩になった。その場にいるのが耐えきれなくなり、俺は教室を出た。廊下に出ると、ひんやりとした空気が頬を撫でる。妻のA**がいた。何故、こんな場所に、と一瞬思ったが、出発するときの、いつもと同じ行動のつもりでキスをしようと思った。唇を近づけると、妻は露骨に顔をしかめた。

「やめてよ、口が臭いのよ、何度言ったら分かるの?」

冷たく吐き捨てられた言葉に、俺は傷ついた。そんなに臭いのか。ま、臭いんだろうな。仕方がない。しかし、この女は、俺のすることなすこと全てが気に入らないのだ。それは、俺の精神も肉体も、根本的に嫌悪している、ということなのだ。

もうずいぶん長いこと、性関係がない。最後に肌を合わせたのはいつだったか。忘れてしまうほど昔のことだ。或る時、彼女は俺のペニスを「汚い、気持ち悪い」と、吐き捨てるように言った。確かにそうだろう。見知らぬおっさんがいきなり股間を晒せば、それは誰だって気持ち悪がるだろう。彼女にとって、俺のそれは、そのレベルなのだ。

もうどうでもいい。ならば離婚すればいい。何度そう思ったことか。それなのに、俺(たち)は惰性でこの関係を続けている。

会社に行かねば、と急いで家を出る。家から歩き出したのはいいが、肝心の自転車を京王八王子駅の裏に止めてきたことを思い出した。そういえば、俺はハイデッガーを捜していたのだ。どこかの本屋か古本屋に行かねばならない。自転車を拾ってからにしよう。

自転車のサドルに跨がり、ペダルを漕ぎ出す。風を切るたびに、頭の中では様々な思考が去来した。

日本の文芸批評の創始者とも言える、大林佳夫がトルストイの件で批判された話。鷗外を書かなかった理由もそこにあると俺は思う。偉大な批評家でさえ、時に道を踏み外すこともあるのだ。

最近読んだ一冊の本を思い出していた。『(あけ)に潜むもの』、という、ありがちな書題ではあったが、俺には面白かった。――或る女性俳人(今では知るものもほとんどいないだろうが、山鹿波奈子(やましかはなこ)という名前だったが、無論配俳号なのであろう)が書いたその本には、大林佳夫の知られざる一面が記されていた。口絵に配された、20代後半であろう波奈子の写真は、和服姿の清楚な美人だった。








当時すでに高名な実業家の妻だったはずの彼女が、実は大林の愛人でもあったという衝撃的な事実。無論、この書が刊行されたのは、その実業家も大林も鬼籍に入った後のことだ。もう随分なお婆さんであろう。そもそも、自らの著書に、あるいはそのカヴァーや帯に自らの顔写真を載せる人の感覚が俺には理解できない。無論、芸能人は別だ、顔が商売道具であろうから。

それにしても、こんな若い時の写真を載せるなんて、わたしはとても綺麗よとでも言いたいのであろうか、それが文学と何の関係があるのか? と、いささか白けた気持ちを持っていた。

ところが、或る時、その女流俳人も先年他界していて、この著書は近親者による編集の下に死後刊行されたものであることを知って、得心がいった。さもありなん。恐らく、本人は書いたはいいものの、人目に触れるのが憚れることも書かれているが故に、半分以上はお蔵入りのつもりだったのではないか。

鎌倉駅のホームから落ちた大林、晩年では奥伊豆の海水浴場で溺れて死にかけたという逸話の、その本当の理由が、その自伝の中で仄めかされていた。

二人は男女の関係として愛し合っていてもいたのであろうが、文学上の、あるいは芸術上の(山鹿は古美術評論家としてその世界では知られていたそうだ。大林の古美術好きについてはいうまでもない)師匠と弟子、という関係だったのではなかろうか。

その俳人の話が、偶々、ハイデッガーとアーレントの往復書簡集を読んでいたこともあって、なぜか俺にはハイデッガーとハンナ・アーレントの関係と重なって見えたのだ。アーレントはハイデッガーのマールブルク大学時代の教え子でありながら、長く彼の愛人として寵愛を受けた。後に師と敵対することになる二人の関係は、世間には決して明るみに出ることのない、秘密の絆で結ばれていた。二人は一体どんな顔をして密事を交わしていたのであろうか? ま、俺には何の関係もないことだが。




偉大な哲学者も、批評家も、誰も彼もが、表舞台とは異なる裏の顔を持ち、情欲に身を任せていたのだ。岡本太郎の言葉ではないが、「どんなものにも顔がある。グラスの底に顔があってもいいじゃないか」と、すれば、どんな人も心の底に、別の顔を持っているのだ。要するにやるべきことはちゃんとやっていたのだ。そう思うと、俺は言いようのない暗澹たる気持ちになった。誰も彼もが、俺とは違う。俺は何一つ、まともに「やって」いないのではないか。会社での無意味な会議(そう言えば、あの会議は一体どうなったのだ?)、妻との冷え切った関係、そして、手に入れることさえ叶わない文学的、あるいは思想的達成。すべてが中途半端で、宙ぶらりんだった。

八王子の街を自転車で走りながら、俺は自問自答を繰り返す。空は高く、雲一つない。俺の心だけが、重く淀んでいた。

 

師匠と弟子

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①2683字(400字詰め原稿用紙換算7枚) 

20250720 2028