2025年7月21日月曜日

眼医者

 

眼医者

以前、合宿中に急遽入院したことがある。それは夏の盛りに行われた合宿での出来事だった。鬱蒼とした山々に囲まれた、ひどく退屈な研修施設に缶詰めになり、朝から晩まで仕事に追われる日々。その最中、突如として右目の奥に、鉛のような鈍い痛みが走り出した。これは仕事どころではない、耐え難い痛みで、俺はすぐに合宿責任者に事情を話し、最寄りの大きな大学病院へと向かった。診察室で何が起こったのか、今となっては記憶が曖昧だ。ただ、若い医師が首を傾げながら告げた「入院が必要ですね」という言葉だけが、奇妙に耳に残っている。

合宿中に入院? まさか。生まれてこの方、入院はおろか、手術すら経験したことのない俺にとって、それはあまりにも突飛な話だった。冗談ではない。これでは全く焼きが回ったなというしかないではないか。




「大学病院に入院する」 画像生成:Google Jemini

致し方ない、と自分に言い聞かせたものの、一体何日間、この病院の厄介になるのだろう。こんなことをしていたら、合宿どころか、仕事そのものが宙に浮いてしまう。そもそも、なぜここで入院

しなければならないのか。東京に戻ってからでも良かったのではないか――今更ながらそう思うが、あの時の俺は、妙に神経が耗弱していて、医師の言葉に逆らう気力すら湧かなかった。着の身着のままで、促されるままに病室の扉をくぐったのだ。

 

案内されたのは6人部屋だった。人の気配はする。生活の痕跡とでもいうべき、微かな物音や影がそこかしこにあるのだが、実際に誰かの姿を目にしたことは一度もない。薄汚れた白いカーテンが、それぞれのベッドを頑なに隔てている。わざわざそのカーテンを開けて話しかけるのも躊躇われたし、何より、彼らは決して姿を現そうとしない。まるで透明人間か、あるいは俺以外の時間が止まっているかのように、物音ひとつなく、人のいる気配すら感じられないのだ。

眼に悪いから、と携帯電話は取り上げられた。当然、本を読むことも許されない。元々、手元に一冊の本もなかったのだが。視界から奪われた情報源は、俺の時間を無限に引き延ばす。退屈で、退屈で、どうにかなりそうだった。消灯は夜の9時。ところが、夜になっても全く眠ることができない。その代わりに、昼間、ふとした瞬間に意識が遠のき、短い昼寝を断続的に繰り返す羽目になった。

散歩でもしようかと考えたが、右目に不慣れな眼帯をしていて、遠近感が全く摑めない。歩こうにも足元がおぼつかないのだ。そもそも勝手に散歩していいのかすらわからない。何をするのも億劫で、ひたすらベッドの上で天井を眺めているしかなかった。 

もうかれこれ数日が経った。いや、数日という感覚すら曖牲になっていた。まるで時の檻に閉じ込められたかのように、時間の流れが曖昧で、昨日と今日の区別すらつかなくなる。刑務所に収監された囚人も、きっとこんな風に時間の感覚を失っていくのだろうか。

午後になると毎日、診察室に呼び出された。定期検診なのか、治療なのか、それともリハビリテイションなのか、俺には全く分からない。そもそも説明があったのかもしれないが、耳を素通りしたか、理解できなかったかのどちらかだろう。そこで俺を診てくれるのは、二人の女性だった。医師なのか、それとも視能訓練士なのか、肩書は不明だ。日替わりで担当してくれて、素人にはよく分からない、検査のような、あるいは治療のようなことを施してくれた。

眼帯を外され、右目を消毒される。冷たい感触の後に、何やら目薬が差され、視界がぼやける。すると、スモール・ライトのような器具で、俺の眼の奥をじっと覗き込むのだ。その距離の近さに、いつも戸惑いを覚えた。

一人は髪の長い、少しだけふっくらとした印象の女性だった。もう一人は、ショート・カットだからというわけではないが、少年と見紛うばかりの細身で、きびきびとした動きが印象的な女性。不思議なことに、俺はその「少年のような女性医師」に、密かな好意を抱いているような気がした。いや、違う。そうではない。むしろ、その「少年のような女性」が、なぜだか俺に興味を、あるいは好意を抱いているように感じられたのだ。そんなことが、果たしてあるのだろうか? 



「診察中の山田医師」 画像生成:Google Jemini

眼科だから当然なのだが、顔と顔が異常なほど接近する。彼女はじっと俺の瞳を見つめる。已む無く俺も彼女の瞳孔を見つめ返す。これは一体なんだ。彼女は、何かを考えながら、俺の目を見る。じっと見る。その度に、彼女の吐息が微かに頬にかかるような気がして、俺はひっそりと息を止めた。

彼女の名前が分からない。名札を覗き込もうとするが、何やら判読不能な文字が羅列されているだけだ。「山田?? 波? 留?」と読めなくもないが、それが本当に彼女の名前なのか、それとも単なるメモ書きなのかすら判然としない。

「治るんですかね?」

仮称「山田医師」は何も答えず、ただ「うーん」と曖昧な返事をしながら、椅子の上で膝を抱え込む。どうしてそんなことをするのか? 逆に正直な人なのか? 本当なら「もちろん治りますよ」と力強く言ってほしいところだが、彼女のその曖昧さが、かえって真実味を帯びているように感じられた。

突如、何も言わずに、仮称「山田医師」は、何も言わずに診察室の奥へと去っていく。どこへ行くのだろう? ふと視線を窓の外に向けると、中庭から一匹の犬がのんびりと入ってくるのが見えた。ここは動物病院兼用なのか? そんな馬鹿な。

机に置いてあった珈琲カップを倒してしまった。茶色い液体がじわりと広がる。これは本当にコーヒーなのか? 香りがしない。ティッシュで拭き取る。





「病院を無断で抜け出す」 画像生成:Google Jemini

已むを得ず、自分の病室に戻ろうとした、その時だった。なぜか俺は自分の荷物を持って、病院の玄関から外に出ていた。気がつくと、合宿の宿舎に戻ったつもりなのだが、そこは宿舎というよりも、豪華なホテルと見紛うばかりの佇まいだ。トンネルの入り口のような、薄暗く奥行きのあるエントランスを潜り抜ける。

 

自室に戻ろうとすると、なぜかバスの1号室のメンバーが誰もいない。バスの号車でグループを組んでいるのだ。みんな、もう東京に帰ってしまったのか? いや、そんなはずはない。他の部屋からは、まだ賑やかな話し声が聞こえてくる。

合宿責任者を探して、今後の指示を仰がなければ。階段を降りると、後輩の倉敷君がいた。彼に聞くのは少し気恥ずかしいが、背に腹は代えられない。

「榎木部長、どこにいるか知ってる?」しかし、倉敷君は俺の問いかけに答えることなく、どこかぼんやりとした表情で、壁のシミを見つめている。どうも、俺が誰だかわからないようだ。

仕方なく、正面のグラウンドに出ると、生徒たちが集合していた。騒めきの中で、俺は合宿責任者の姿を探した。あそこにいるのは土岐君だ。しかし彼は、何やら審査委員席のような場所に座り、賞品がずらりと並べられたテイブルの前で忙しそうにしている。邪魔したら悪いので、その場を離れる。

人混みを無理矢理かき分けて進む。視線の先に、神社の鳥居が見えた。祭りでも開催されているのだろうか? 賑やかな音が遠くから聞こえてくる。

そこには、先輩の安治さんがいた。彼は俺にアイ・コンタクトをとってくる。なぜだ? 何かを言いたげな、しかし何も語らないその視線に、俺は不安を覚えた。何が言いたいのだろう?

再び正面の方向に戻ると、ちょうど目の前を1号車のバスが通り過ぎるところではないか。

「おーい!」と声を張り上げ、手を振る。しかし、その右手には、黒革のぶかぶかな手袋が嵌められていた。まるで子供が父親の手袋を無断で付けてみたかのように、指先が余っている。手を振るたびに、そのぶかぶか加減が強調される。

1号車のバスはそのまま、あっという間に視界から消えていった。

しかし、俺は一体、どうやって東京に戻ればいいのだろうか?

生徒達が嘲笑うかのように、周りで大笑いしていた。

 

眼医者

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①3192字(400字詰め原稿用紙換算8枚) 

20250714 0857

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